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第3回広域セミナー開催報告(2008/6/24)

※ はてなdiary終了につき、こちらに移します(2019/1/22)

身体化された心と人工の脳

第三回広域セミナーは、本郷の情報学環から基礎情報学の西垣通先生、駒場の総合文化研究科から複雑系科学の池上高志先生のお二人にお越しいただいて、「身体化された心と人工の脳」というテーマで講演していただきました。

タイトルをご覧になって、これは何を意味するのだろうと思われた方も多いと思います。

  • 心が身体化されるって何?
  • 人工の脳って人工知能のこと?
  • その二つがどう関係してくるの?

その疑問は、最後までこの報告書を読んでいただければ、おそらくわかるのではないかなと思います。今までのセミナーと違って、(というか毎回今までと違うものを目指しておりますが)今回は講演者二人と、その対談となっております。その分、若干長くなっておりますが、情報学とか複雑系とかわからないよ、という方にもわかりやすく語られています。それどころか、情報学や複雑系といった枠に収まり切らないくらい、話は広く深く展開していきます。

  • 生きているとはどういうことか
  • わかるとはどういうことか
  • 知識とは何か
  • 研究するとはどういうことか

普段、生活をしていてなんとなく違和感があったこと、なかなか説明できなかったことのヒントがこの対談に見つかるかもしれません。あるいは、まったく新しい知見を得られるかもしれません。

第三回広域セミナーの始まりです。

西垣先生 講演

心を持つコンピュータは可能なのか

テーマにある「人工の脳」に私が興味を持ったきっかけは、1980年代に通商産業省が立ち上げた「第五世代コンピュータ開発」という国家プロジェクトと関連しています。これは当時の日本の第一線の研究者が官民一体で取り組んだ、画期的なコンピュータだったのです。目的は、世界に先駆けて斬新な国産コンピュータをつくること、とりわけ言葉を理解するコンピュータの開発でした。論理型言語を直接ハードウェアで並列処理するという、今までなかった考え方や概念の提案、そしてそれを実際に作った、というところがすごい。それなのに、第五世代コンピュータはなぜ、ほとんど使われないものとなってしまったのか。

一方、ちょうどそのころ、大量生産型のパソコンやワークステーションなど、今我々が使っているようなコンピュータが出始めました。今のパソコンはハードウェア自体はシンプルで、ソフトウェアが複雑になっている。人間の言葉を理解するというよりは、人間とのインターフェイスに重点がおかれています。そして、こちらが主流になりました。どうして第五世代コンピュータは挫折してしまったのか、心を持つコンピュータはできないのか――これが私の問題意識です。

一人称的記述と三人称的記述

機械の心というのは、mind body problem、心身問題の一つです。昔、百科事典の中身をひたすらコンピュータにインプットしていた研究者がいたそうです。しかし、それで「心を持つコンピュータ」なんてできませんよね。私はここに「一人称的記述」と「三人称的記述」の差があると考えています。ヴィトゲンシュタインは「私は今、歯が痛い」という記述と「私の腕が折れている」という記述は全く異なると言いました。「私の腕が折れている」というのは否定命題が成り立ちます。レントゲンをとって「折れてないじゃないか」と反証することが可能です。しかし「歯が痛い」というのは、主観的記述で、反証が不可能です。これは内容の分類で、文法的分類ではありません。たとえば「空は悲しいほど澄みとおっていた」という記述は、形式的には三人称ですが、内容的には一人称です。否定しても意味がないわけです。私は、一人称的な内容を表現できるコンピュータをつくらないと、コンピュータが心を持ったと言えないと思うのです。

このような問題は、ヴィトゲンシュタインだけでなく、フッサールやハイデガー、さらにソシュールなど、哲学者や言語学者が昔から考えていたものです。しかし、それが、第五世代コンピュータをつくったエンジニアたちには届いていなかった。ここに縦割りによる知の分断があった。もう少し学際的な交流があれば、第五世代コンピュータの内容も違ったものになったのではないでしょうか。客観的な、三人称的記述だけにとらわれず、クオリアと言われるような一人称的な記述、あるいは主観と言われるものの大切さを考慮にいれなくてはならなかったのではないでしょうか。

翻って現在の情報社会を考えたとき、すべての情報が、三人称的記述に偏ったものになりつつあると感じています。人間が機械的になっている。そうでない情報社会があってもいいのではないかというのが私のスタンスなのです。そこで情報というものを基礎から考えたくなって、「基礎情報学」という学問を始めました。

断片化された一人称

半世紀くらい前、哲学や思想には三つの流れがありました。(1)マルキシズム、(2)サルトル・メルロ・ポンティなどの実存主義、(3)論理実証主義・分析哲学です。これらのうち、マルキシズムと実存主義は時間や歴史とかかわっている。つまり、未来に向かってどう生きるべきかといった価値観を教えてくれるものでした。しかし、両者はともに退潮してしまいました。実存主義は静的な構造主義、さらに概念の根本を問い直すポスト構造主義にとってかわられました。その中で、論理実証主義・分析哲学は未だ残っているばかりか、情報社会のベースになっていると言っていいと思います。

このように現在の社会の思想的なベースは、静的・非歴史的で、形式や論理が中心です。ですから、生きていく上での「不安」といったものを受け入れてくれるような、緻密なロジックがなくなってきていると私は感じています。ウェブ空間で「自分自身」というものが機械的な断片になっていく不安を感じたことはありませんか?私はそういう不安を書きたくて、このあいだ小説を出版しました。

端的に言うと、現在の情報社会では、一人称的な記述が抑圧されている。また我々の個々の一人称的な記述を、もう少し大きな共通回路につなげていき、生の不安を和らげるための社会的装置が見えにくくなってきているのではないでしょうか。

端末ベースからウェブ空間ベースへ

世界の機械化が蔓延しているなかで、生命論を再考すべきなのではないかと私は考えています。もちろん、これは機械排斥論ではありません。たとえばいまのGoogleの検索サービスに代表されるウェブ2.0をはじめ、ITには非常におもしろい技術の萌芽があります。ウェブ2.0の特徴は、今までのパソコン端末から、ウェブ空間へと処理のプラットフォームがシフトしていったということです。しかし一方で広告と市場原理が入り込み、「知識はウェブから検索すればいい」という安易な考え方が流行しています。しかし、これはおかしい。ウェブ空間の中から機械的に検索できる概念的な知識は大半があくまで「三人称的記述」にすぎません。それだけを「知である」というのは、百科事典をパソコンにインプットしていくのと変わらないでしょう。むろん、ウェブ空間内の知識も役にたつし、実際に私もGoogleでそれらをよく検索しています。しかしそのことは、一人称的に「自分が考える」ということとは別物なのです。だから、ウェブ2.0で満足するのでなく、さらに次のステップを考えなくてはいけない。

専門知と集合知

ウェブにはいろいろな使い方があると思います。今の社会は縦割りの専門分化社会です。ある程度の年齢になったら、誰もが専門を絞らざるをえない。しかし、専門知、つまり狭い専門分野の知識とは別に、集合知(Collective intelligence)と呼ばれるものがあると思います。今後、縦割りの専門知から横割りの集合知へというパラダイム変換が起きるのではないか、と私は思うのです。それは単なる知識の寄せ集めとは異なり、サイバースペースで一人称的な体験を基にして作り上げる実践的な知のことです。たとえば、Wikipediaやブログなども、集合知の第一歩として位置づけられるものかもしれない。たとえば、自分の子供が難病にかかったとします。どこの病院にいって、家庭ではどのように対応したらいいのでしょうか。専門知としては、様々な医学知識があり、論文も書かれているでしょうし、社会的な補助制度もあるでしょう。しかし専門的な文献は、いずれも専門用語で書かれていて普通の人には理解が困難です。そのような専門知とは別に、同じ病気の子供をもつ他の人々の体験ブログなどをウェブ上でうまく整理、編成して提示してくれれば、それは実践的な横割りの知、集合知となりうるのではないでしょうか。

三人称的な専門知には、どこか「知のための知」といった部分があります。非常にpureな性格をもち、客観性が求められます。一方で集合知は、厳密性には欠けるにせよ、「信念」とか「経験」、「生きるための知」といった身体性を伴っています。むろん、単に今のブログを寄せ集めればよいというものではありません。まだ具体的な方法は見えていませんが、うまく編集し、内容の信頼性をあげていくことによって、専門知からこぼれおちるものを、もしかしたら拾うことができる時代がくるのではないでしょうか。

一人称と三人称の橋渡し

一人称的記述と三人称的記述は方法論が違います。「学際」という考えがその二つの差を埋めていくと考えます。現在の情報社会においては、その差を埋めていく作業が必要なのです。私は若い頃、三人称的な論文を書く研究者でした。メインフレーム・コンピュータのオペレーティングシステムの性能・信頼性の評価や、最適化の数理的研究をやっていたのです。三十代半ばをすぎて、一人称的記述の重要性に気が付き、今では一人称的な生きた体験からどうやって三人称的なところまで行けるか、その方法論を模索しています。私の推測ですが、逆に池上先生は、三人称的なところからいかにして一人称的な「生きてるってどういうことなのか」を模索していらっしゃるのではないでしょうか。

質問

Q.一般的な社会では客観的な三人称的記述のほうが重みがあると思うのですが、先生はあえて違うという考えなのですか

A.要するに、本当の意味で「客観的な記述」なんて、いったいどこにあるのかということです。計測機械があれば客観的といえるのでしょうか。たとえば犬はそれぞれ、主観的な世界に生きていると思いませんか。つまり、本来は、一人称的な主観世界がまずありきだと思うんです。それらがまずあって、やがて相互コミュニケーションを通してコンセンサスがでてきて、事後的に三人称的な客観世界が形成される。逆に三人称記述や客観世界を前提にすると、本来の一人称的な身体経験が分断されて、自分の生きる思いや実感がなくなってしまうのではないか、と思うのです。

Q.先生は第五世代コンピュータを例に出して、それは一人称的動作をしないと、心がないコンピュータであるとおっしゃいましたが、コンピュータに「心がない」と判断・評価するのも我々人間ですよね。僕はコンピュータが一人称的動作をしていると思うんですが、どうですか。

A.生物と非生物を厳密にわけることは確かに難しいですし、ある意味で不毛です。両者は同じところもあるし、違うところもある。非常にクリティカルな問題です。この問題は池上先生の講演とも重なってくるテーマであると思いますので、後でディスカッションしましょう。

池上先生 講演

AIとA-Life

西垣先生は僕が大学院のころから存じ上げていて、僕の専門は複雑系とかコンピュータの中で生命を作るという人工生命ですが、コンピュータは何ができるのかとか、コンピュータの将来について考えさせられました。初めに、先ほど出てきた第五世代コンピュータとかなどのAI (Artificial Intelligence:人工知能)と、僕がやっているA-Life (Artificial Life:人工生命)の違いを説明したいと思います。この二つは全然違う。AIは基本にはデザインやどういう言語の設計をするかが強くあって、これが進歩してインターネットを作り出したといえると思う。一方で、A-Lifeのほうは、特徴が二つあって、ひとつはGeneratorであるということ。新しい構造や形、パターンを創り出す(generate)方法論であって、デザインしなくても自動的に変異体を作っていくことができた。これは人が神になれるということで、5億とか6億年とか待たなくてもシミュレーションによって、いろいろなものを自動的に加速して創造できるということだった。人が設計しなくちゃいけないAIに比べて、原始的であるけれどものすごくパワフルなGeneratorさえ入っていれば、それで世界が作れるんだという確信をA-Lifeを作ったんです。もうひとつの特徴はIndividuality(個別性)で、個別性は例えば物理学ではほとんど扱われていない。質点が集まって作りだす複雑なパターンの研究をすることはあっても、その点の中に複雑なダイナミクスが装備され、それが自由に空間を動き回ったりするという研究は全くなされていなかった。そうした内と外の複雑性の問題。

AIには明確な「個別性」はなかったし、generatorという考えもなかった。A-Lifeでは例えばコンピュータシミュレーションで、あらかじめ人工的な化学反応をインプットしておけば、それが個別性を進化させ、自分で補修したり動き回ったりといった、まるで生命のようなものをつくる、といったことが研究目的となる。今まで、ものすごく言葉を尽くさなければ語れないと思われていた「生命」というものが、簡単な方程式や条件を投入するだけで、コンピュータ上にその片鱗をみせる。それがA-Lifeというものです。AIのようにきっちりデザインしなくても、我々が自然現象で観察しているものが、多様性が、計算モデルとして扱えるようになったんです。

A-Lifeで生命は創れるのか

では、人工生命をやることで「生命」が理解できるのか。僕らがA-Lifeをやっていた間に、分子生物学の研究が非常に進みました。分子や原子の動きを見ればボトムアップ的に「生命」がわかるという考えのもと、原子分子がひとつひとつがどう動けばシステム全体はどうなるのかとに関して、システマティックに研究が進んでいって、データもたまってきた。このアプローチに懐疑的ではあっても、ここまでデータがたまってくると、何か演繹できるのではないか、という気になるし、それに人工生命がそれに対抗できるかというと、実際、今A-Lifeから生命はできていないし、そのわかり方も限定されていますよね。どうして、未だに、コンピュータの中でも構わないから生命が生まれないのか、ということは誰にも説明できないでいる。

ブルックス(Rodney Brooks)という人が、20年くらい前にSubsumption Architecture(包摂アーキテクチャ)を用いてすごく簡単なロボットを作った。よく従来のAIと比較してこれは新しい方法論であったとされるわけだけれど、特別なことは別になくて、ただ内部の複雑なプログラムでロボットを賢くするのではなく、賢さの起源を外に求めるということです。別な言葉でいうと、理性(reason)なき振る舞いと言われるように、内部表象がなくてもちゃんと環境に適応して振る舞う。だからそんなに一生懸命ロボットをデザインして作ろうとしても意味はないよ、というのがブルックスの主張で、それはまた人工生命の主張ともつながって、自律的ロボットは人工生命研究の一大トピックスになったわけです。このロボットは、今のところあまり賢いことをするようにはなっていない。それでも他の高性能なヒューマノイド・ロボットに比べてずっと生命っぽくみえる。今のロボット工学はこういったオートノマス(autonomous:自律的な)ロボットというような考え方はなくなっていて、とにかくいっぱい設計するんだ、というふうになっている。

ロボットがなかなか本当の生命には近づけない理由、ブルックス自身は、それは”juice”が足りないんだと表現した。(Flesh and Machines: How Robots Will Change Us)

生命に必要と思われるいろいろな材料をかき混ぜても生命にはならない。最後のひと絞りのジュースが必要というわけだ。この”juice”が新しい材料なのか、考え方なのか、新しい数学なのかはわからない。だけれどもその何かが見つかっていないので未だにロボットもプログラムも生命ではない、というわけです。

化学物質で生命は創れるのか

一方、コンピュータの中で作るのではなく、実際に化学物質を用いて現実の世界に「生命」を作りだすという方法論を考えた人たちもいます。そうした研究者の一人であるルイジ(Pier Luigi Luisi)は、化学で生命の起源を探すことをやってきた人であり、彼は”The Emergence of Life”っていう本の中で、なんで生命ができないのかを論じています。そこでは材料よりもプロセスやフレームを考えることを提案しています。

最近は僕もイタリアのマーティン・ハンズィック(Martin Hanczyc)や東大の菅原先生や富田君と協力して、化学物質を用いて動く生命っぽいものを創り出すという方法を試しています*1。これは、オレイン酸という化学物質を使って、生命っぽいものを作ってみました。

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オレイン酸は疎水基と親水基持っていて、油と水の間を囲むんです。この図は油なんだれけど、膜で丸く形を形成するだけでなく、反応を起こしながら自分の膜を作りながら動いていく、進んでいく。これは、A-Lifeと同じように別にデザインしたわけではないけれど、自分で動いていくっていう意味では、自律性を持っています。内部で生じる滞留構造が化学反応を持続させ、それが表面張力を介してマラゴニアン効果をもたらして、自律的な運動を起こしている。では、はたしてこういう化学実験からついには「生命」を創り出す可能性があるのか。

「わかる」とは何か

化学実験ですぐに「生命現象っぽい」ものが形成できると言うと、やっぱりコンピュータで生命っぽいものが作れなかったのは、物理法則にしたがった自然の系ではなかったからだ、と安易に結論づけがちだけれど、それでいいのか。それは、自然の中だと何かUnknown(未知)な力が働いてそれが助けてくれるんじゃないかという信仰にすぎない、と僕は思います。また別の問題として、この化学実験をやった僕たちにしてみたら、自分でこういう膜を作って油が動き出したりすると「おー!すごい!」とか思うけど、ほかの人に「え、でもそれ油じゃないですか。油が生命なの?」と言われかねないわけで。つまり、ここでの問題は「生命がわかる、あるいはつくれる」とはどういうことなのかが「わかってない」。「できた!」と思うことと、「それは油に過ぎない」という、この差は何なのか。

「わかる」とはどういうことなのか。Googleの誕生によって、西垣先生のおっしゃるように、たいていの知識はウェブに落ちている。その結果、昔の「わかる」と今の「わかる」って違います。でもそのgoogle的わかり方、google的知性とは違う、昔なりのわかり方の良さもあって、これロマンティックサイエンス的分かり方と言おうと。この昔ながらのわかり方を、僕はどうしてもまだ捨て切れないでいる。特に生命について分かるとは、フレーム問題にも抵触するし、対象化にした世界として生命を切り出すことに失敗する、そのことが大事なことだと思うわけです。

「わかる」ことの主観性の大切さ

生命そのものは、少なくとも僕の考えでは、ある程度その生成された、生命現象に寄り添うことでしか理解できないのではないかなと。つまりはわかるというのは、自分にとって分かるということであって、それは一般的な知覚の問題と関係している。そこで興味があるのはクオリアです。クオリア問題は、知覚の問題であって人工生命の問題としては扱われてこなかったものだけれども、「生命をわかる」ということはクオリア同様きわめて一人称的なことであると思う。

クオリアというのは、ものの質感に関するもののことで、赤色の波長をなぜ「赤い色」として感じるのか、といった科学的説明の枠組みそのものの外にある問題です。生命同様クオリア問題も今のところどう捉えたらよいか、分らない。しかし、例えば最近うちでは46inchのデジタルテレビを買ったんだが、そのビビッド感に完全に圧倒されたんです。あまりにも圧倒敵なリアリティーをもってアレッチ氷河だのギアン高原が迫ってくるから、本当にそこにいるかのような気持ちになる。

たとえばこうした体験から「処理しきれないほどの莫大な量の入力データ」というものとクオリアが何か関係しているのではないかなと最近は考えている。これは最初に言ったブルックスのロボットに足りない「何か」とも関係していると思う。ロボットのセンサーに入ってくる入力は限られていて、入ってくる情報が少ないんです。A-Lifeをやるときも、とても入力が制限されている。でも現実には圧倒的な情報があって、それが生命や意識を成立させ現実に存在させている。A-Lifeでは「(過剰な)情報量」っていうものが、今まであまり考えられていなかったんじゃないかなと思う。処理しきれない過剰な情報にさらされることが必要なのじゃないかと思いました。

あともうひとつブルックスの足りないジュースに関係があるのは、時間の進行というものです。リベット(Benjamin Libet)の脳生理実験によると、脳は時間を編集しているらしい。(Mind Time: The Temporal Factor in Consciousness)

つまり、客観的な時間と並列して、行きつ戻りつする主観的な時間の流れが頭の中にある。そういった主観性を再構成することが、「生命になれなかったもの」の理由を考えることの鍵になるんじゃないかな。A-Lifeとかつくるときは客観的な時間の進行や進化という大きなの方向付けに縛られているけれども、新しい主観的な時間に対する理論化の余地がないと、それは生命にならない。それこそA-Lifeに足りないものと結びついているのではないかと思います。

質問

Q.図にある油の「生命現象」らしき動きをするものの、運動エネルギーはどこからきているんですか。

A.ケミカルポテンシャル、つまり化学反応で動いているだけなんで、2分くらいすると死んでしまいます。次の反応を起こしたり子供を残したりするようなシステムもいくつかは成功しているけれど、エネルギーを取り込み維持することで、死なない油、ホメオスタシス(恒常性)を持たせるのはなかなか難しい。

Q.A-Lifeを作ったとして、何に応用したいと考えているんですか。生命をつくったあと、意識の問題とか進化の発生に行こうとか考えてらっしゃるんですか

A.僕は応用は考えていないんです。僕の中では「生命をつくる」=意識とかを理解することで連続しているから。その意味では身体性を持たせて動きだすことは、intelligence(知性)について考えることでもある。

Q.わかるとはどういうことなのか。それはつまり、人間は何を「生命」と見なすかにかかわってくると思います。油も生命だと思う人もいれば、自律的に動いていてもそれは油に過ぎないという人もいると思います。原始的で油と同じ動きしかしないものでも、中を開けてみればDNAがあるから、生命だという人もいる。つまりは、人が何を生命と見なすかが問題なのではないですか。

A.そこで僕が強調したいのは、さっきも言った「寄り添うことの大事さ」なんです。たとえばある人が、相手がコンピュータだったと知らずに3年間メール交換をして、ものすごく仲良くなっていたとしよう。そして、ある時何らかのきっかけから、相手が実は人間ではなくてコンピュータと気がついた。そうしたとき、デネット(Daniel Clement Dennett)という人は、仲良くなっていたら多分コンピュータに向かって「何で言ってくれなかったんだ!」って言うと思うって言ったんです。僕は、そう言えるくらい、人がコンピュータに寄り添うこと、相互作用することが大事だと思う。ペットを飼うとか油の実験をやることによって対象に「寄り添う」ようになるけど、それは実際の研究には書かれていないノウハウなんだよね。シミュレーションとかやっていると、変数をたとえば5に変えてみようとか、ある種の直感的なマジックナンバーが最初はいっぱいあるわけなんだよね。なぜ5なのかということは説明できないけれど、それが「寄り添う」ということに近いんじゃないかなと個人的に思う。そうしたマジックナンバーをはっきりさせていくのが科学がやらなくてはいけないことかもしれない。

Q.先生は「今まで生命はできていない」って断言していますけど、「生命」が何かわかっていないのに、生命ができていないと自信を持っていえるのはなぜですか。

A.メリーの部屋っていうものがあって、メリーさんは白黒の部屋の中にいて、インターネットの白黒の画面を通していろいろな「赤」とか「青」とかいう色を知識としてよく知っている色の専門家なのだけれども、実際の赤とか青色を見たことがない。そんな彼女がその部屋から出た時に「ああ、色ってこんなものだったんだ」とわかるっていうたとえ話があります。これはクオリアについての話だけれども、主観的な経験と知識は別物だという話です。で、なんとなくだけど、同じように生命っていうのは、できたら「これが生命だ!」ってわかるような気がするんだよね。甘いかな。脳の研究者だって脳は何かってわかってないで研究している。全体として意味のあるものは、できちゃったときにはわかるんだと思う。それは構成論者たちの信仰に近いものでもあるけれども。

Q.生命とか自己組織的に動くものを作るときって、複雑な環境をどう作っていくかが大事になってくると思うんです。たとえば、勤勉な日本人的気質ができたのは、安全で温暖な日本という地域があったから、というように。

A.確かにそれは重要で、街に人工生命を連れ出すことは大事だと思う。今はまだ安全な実験室の中だけだけれども、開かれた環境へ連れていくことは大事。A-Lifeの次の目標は街にだすこと。ナムジュン・パイク(Nam June Paik)っていうビディオ・アーティストがいて、ロボットをニューヨークの町へ連れて行って、そのロボットが交通事故にあった。交通事故にあったロボットっていうのがすごく重要なメッセージで、A-Lifeも交通事故にあわせなければいけないと思う。ブルックスも交通事故に合わせるような環境には連れて行ってはいない。全部を書ききれないような環境に連れていった時に、A-Lifeがどういう振る舞いをするかを見るのが大事です。僕がアートとかをやっているのも、そういう開かれた環境の中に連れて行くということを考えているからです。

対談

西垣:お話を聞いていて、池上先生はサイエンティスト、私はエンジニア出身であるという違いがあるのかなと思いました。A-Lifeは科学であり、AIは工学寄りです。つまり、AIはビジネスに結び付いていて、最終的に製品がどう社会の役に立つかということを目指している。一方、A-Lifeというのは、世界の謎を解いていくという姿勢が強い。それは単純にどちらのアプローチがいいかという問題ではないでしょう。たぶん、両方とも大事なんです。

池上:AIは工学でA-Lifeは物理、基礎科学という面は、確かに強いかもしれない。僕がA-Lifeをやりだした動機の一つとして、AIが作ったコンピュータ以外のメタファーを使って生命を説明したいというのがあった。たとえば、脳を語るとき、コンピュータのメタファーを使いますよね。脳のここがCPUで、メモリでとか。そういうのとは違うのも作りたいと思って。

西垣:生命を考えるとき、私は自分自身のことを考えます。私がなぜ一人称的なアプローチに傾くかというと、自分が死ぬ瞬間、自分について語れるのか、という問いにすごく興味があるからなんです。ロボットがもし意識を持っているとしたら、交通事故にあったとき、どうなるのか。ここで死の問題がでてくる。太古の原核生物は単に増殖するだけで、個体としての死はない。真核細胞が出てきて、はじめて個体として死ぬんです。私という個体が死ぬ、そうすると私の意識はそこで断たれてしまう。個体とは袋小路であると、友人のある文学者は言うんですね。私もそう思う。一人一人、個体が袋小路に追い詰められたとき、意識が世界をどう一回性をもって認知するかに興味があるんです。だから一人称記述を無視できない。一方、池上先生は、生命体の奥にどういうメカニズムが潜むのかを、深く、システマティックに知りたいという基本的な動機があるんじゃないかな。

池上:僕は病気が怖くて、死ぬのが怖いのもあるから、死ぬことの恐怖というのは研究の動機になっています。だから死ぬシステムをつくるのは重要なことで、油が2分間で死ぬっていうのはある種成功だと思うんです。ただ油が子供を残したり進化したりするのは数回しかいかなくて、その理由はゴミがたまるからなんです。自然界の生命のいいところはリサイクルが発達していて、ゴミがたまらない。人工に作るとすぐゴミがたまる。バイオスフィアという実験があって、あれは中でできるだけサイクルさせるというもので、そういうアプローチがあってもいいと思うんだけど。ただあれは中にいる人がいろいろな意味で問題となって失敗したらしいんだよね。そういうところから、閉じさせて循環させることの危うさというのも研究するとおもしろいかなと。

司会:池上先生は生きているということは「動いていることだ」と定義されましたが、では西垣先生にとって「生きている」とはどういうことですか。

西垣:私が研究している基礎情報学では、オートポイエーシス(autopoiesis)理論をもとにして生命現象を考えています。認定科学者・生命哲学者のヴァレラ(Francisco Javier Varela Garcia)は、オートポイエーシスを「(膜を自分で作っていく)細胞」と直結してとらえました。自己言及的に膜、つまり境界を自分でつくりだしていく存在を生命と捉えている。詳しい定義はオートポイエーシスの本にあります(マトゥラーナ&ヴァレラ『オートポイエーシス』河本英夫訳、国文社、1991年)(Francisco Varela “Principles of biological autonomy”, Elsevier/North Holland, New York, 1979)。自分自身をつくると同時に、世界や環境をつくり出していくものが「生命」であるとすると、A-Lifeはどう位置づけられるのかなあ。もしヴァレラが生きていたら、今はまだ駄目でも、やがて幾つかの条件をみたせば、A-Lifeも生命になりうると言うかもしれない。

司会:じゃあ、池上先生が見せて下さったものを「生命だ」と思う方はどのくらいいるんでしょうかね。あ、誰もいない?

池上:でもさ、たとえ全員が「あれは生命だ!」って言っても、僕自身が生命だと思えなければあれは僕には生命ではないから。多数決で生命に決まったと言われても、困るよね。定義ってのはそういうことで決めていいわけじゃないよね。逆に僕が確証したら、僕一人しか信じてなくても、それは「生命ではない」という人に説得的になるように理論構築するだけだし。

西垣:それとかかわってくると思うのだけれど、分子生物学の研究者でも、決定論的なことを言う人ばかりじゃない。たとえば遺伝子治療をするとして、もし「ガン遺伝子」が見つかればすごいでしょう。でも「ガン遺伝子」と呼ばれるものなんて存在しないと、彼らは言います。ゲノムの中での複雑な相互作用や関係性の中でガンになるんです。その意味では、病気というのは一回性を持っている。だから、対症療法的に、患者とコミュニケーションをとりながらオーダーメイド治療をやっていくしかない。ゲノム解読だけでは分からないというのです。つまり、本質的なところまで踏み込んでいくと、解明が進んでいるはずの分子生物学の領域でも「生命」とは何かよくわかってない。

池上:僕が言った、「寄り添う」ってのは、治療とも関係があって、西洋医学的に原因を究明するcureと、治していくというcareがあると思う。「元気とは何か」とか原因究明するためにcureしていくのだろうけれども、それだけでは元気とは、生命とは何なのかわからない。材料や原因からだけ見ていくと、生命なんてわからなくて、careから見ていくとわかったりすることもある。

西垣:鎌田實という医者の友人がいて、彼はcureのシステムの中でcareが大事だといって実践した人です。私は医療とか情報という分野は、ある意味で、一人称的な分野だと思っています。でも医療活動や情報現象を客観的・形式論理的に捉えられるものだと考える人もいる。ヴァレラはそれをノイマン(von Neumann)のパラダイムだといいます。逆にもう少し主観的な側面をいれるのはウィーナー(Norbert Wiener)のパラダイム。ウィーナーとノイマンはライバルだった。ヴァレラが言うには、これまであらゆる分野で、ノイマン流の、客観性を重視した数理的なパラダイムが圧倒的な勝利をおさめてきた、と。でも私は、主観性を大事にするウィーナーの立場も大事じゃないかなと思うんです。ウィーナーはサイバネティクス(cybernetics)を提唱したんだけど、それは、自分が対象を観測して、自分で定めた目的関数との差を縮めるようにコントロールしていくというものです。次に出てきたセコンドオーダーサイバネティクス(second-order cybernetics)は、「対象を観測している当の自分」を観測しなきゃいけないと主張した。このことは、池上先生がおっしゃっている、「わかる」とはどういうことかとか、「寄り添う」ことと関連しているでしょう。ヴァレラやマトゥラーナはセコンドオーダーサイバネティクス研究グループのメンバーでもあった。私はセコンドオーダーサイバネティクスの延長上で、情報現象を考えたらどうかと思っているわけです。

池上:デルブリュック(Max Ludwig Henning Delbrück)というタバコモザイクウイルスでノーベル賞をとった分子生物学者が、サイバネティクスの研究会に招かれたときに、彼が数学的、物理学的にとらえようとするのに際し、ベイトソン(ダブルバインド理論/論理階家型の上昇などを提唱したアメリカの哲学者)が「そもそも学習とは何か、笑いとは何か」とか言い出すから、哲学談義の嫌いなデルブリュック自身は「それは違うんじゃないか」と怒ってしまい、サイバネティクス研究から離れてしまった。ベイトソンとかミードとかは意識とか自我とかを考えないと生命とは何かはわからないと思っていた節がありますから。おもしろいのはデルブリュックも分子生物学を立ち上げた後は、知覚や心の問題に関心を寄せていたことです。結局はそこに戻ってきます。ベイトソンは論理と思想の中で、意識とは何かとかいうことを展開したものであり、対極するものではなくて、表裏の関係にあるものだと思うんですよ。

聴衆1:何が生命ではないということの共通見解とかってあるのですか

池上:僕は別に正解をもとめているわけではないから。ヒッチハイカーズ・ガイド・トゥー・ザ・ギャラクシーっていうSFがあって、それは宇宙の謎を探究に冒険に出るんだけど、答えそのものに意味はなくって、それを探すべく旅をするのが答えになっているんだよね。たどり着く過程が答えになっている、そういうことが結構世の中多いんじゃないなと思う。。

西垣:何が生命でないか、ってのは、本質的には、何が生命かと同じ問いだよね。でも、少なくとも生命の必要条件をみたしていない、という理由で否定することはできる。たとえば「地球は生命体である」という人がいるけど、私はそれは違うんじゃないかなと思う。地球は複製もしないしね。ただし、生命の定義うんぬんといった話は、あまり生産的な議論を引き起こさないし、つまらない。あえて言うと、私は、生命とは未来へむかってemergence(創発)をつづけていく、わけのわからない側面を持っているものだと思う。そういうおもしろさを持っているものが生命じゃないかな。

池上:あと、付け加えて言うなら、生命とは何ではないかは分野によって違う。非平衡状態を保つものが生命とか、システムがどうこうとか、それはトリビアルな違いだよね。僕がいいたいのは、「これが生命である」ということと「死ぬことが怖い」ということは無関係ではなくて、それを別々に話していても意味がないんじゃないかということ。そういう意味では「これが生命である」と科学的に何か言ってノーベル賞を取れたとしても意味がないよね。

聴衆2:さっき池上先生は、自分が「これは生命である」と思ったら理論構築して「生命である」ことを説明するとおっしゃっていましたが、先生が「生命である」と思うというのは一人称であって、それに納得した人が増えていく、と定義ができて、それが三人称になってしまうということなのでしょうか。ちょっと一人称と三人称の違いがわからなくなっているんですが。

西垣:一人称と三人称の区別という表現は、わかりやすいから言ったけれど、厳密にはもっと複雑な構造をもっています。基礎情報学の中では、コミュニケーションシステムの中で人々が納得したりしなかったりすることがポイントです。端的には、ある人の言う一人称的記述でも、周囲の人々がみな納得したらそれは客観的な三人称記述に近づく。いろんな共同体があって、それぞれが自律的なコミュニケーションシステムをつくっている。その中でコンセンサスを得るかどうかが問題です。だからといって、客観性などない、すべては相対的だというわけじゃない。コンセンサスを得るにはきちんとした手続きがある場合も多いわけです。たとえば、科学者共同体の中で認められるためには、普通、論文がアクセプト(査読通過)されなくてはいけない。さっき言った集合知も、発言者責任の設定をどうすればいいのか、私は今考えています。

聴衆3:たとえばあるものを見て、ある時は生命かなと思うけれど、次のときには生命ではないと思ったりする。生命の定義というのは個人の中でゆらぐし、社会的コンセンサスの中でもゆらぎますよね。あるいは三歳児のところにAIBOとかを持っていくと、知能を持つ存在、生命と感じる。それを、科学者の考える生命と三歳児の考える生命は違って後者は間違っていると言った瞬間に「生命」の問題はおかしくなってしまう。チューリングテストとかの意味もおかしくなってしまいますよね。生命とか知能とは何かを定義するのではなく、ある存在に対して生命とか知能だと感じる存在をどのように表すかが本質的な問題だと、聞いていて感じました。

聴衆4:「動くもの」が生物なら、ブラウン運動とかと違うのは何なのでしょうか。

池上:それはある意味では簡単な質問で、ブラウン運動からどのくらいずれた動きをするか、自律的に動くことによるパターンがあるかというのが違います。デザインされている動きと、ブラウン運動も違う動きをするが、生命の自律的な運動はそれとも違う。

聴衆4:たとえば、ネコを飼っている人はネコに心がないといったら怒ると思うんです。あるコミュニティである対象に心があるとみなすことで、生命とみなすことになるのでしょうか。

池上:僕は定義云々とかより、日常のメタファーをぶったぎって新しい科学をつくることが大事だと思います。生命を研究をしたら新しい認識論が生まれるかもしれないと思ってやっている。新しい数学とか思想とかを見たいと思っているから、別に「生命」そのものをわかりたいというわけではない。「生命」そのものがわかったとして、それは本当におもしろい保証があるか?自分が今わからなかったものが出てくるに違いないというような期待があることがおもしろくって、答えがどんなものかはわからないけれど、普遍的な生命とは何かの答えを得るよりも、変な生命体に会うことの方がおもしろいことだってあるだろう。研究ってそういうことだと思う。たとえば科学のProductivity(生産性)とhealthiness(健全さ)ってのが重要だと思う。研究をやってみてわかることってのはあるから、生命とは何かにダイレクトには向かわないかもしれないけれど、そこの過程で得られることのほうが大事だと僕は思う。それは理学部的な発想であって、社会的影響を考慮にいれなければいけない工学的なものとは違うでしょ。ただし、新しい考えの社会的影響力とかパブリックの中での科学の動きとかはおもしろいと思っていて、だからアートとかも最近は自分でやっているんだけど。

西垣:池上先生は生命の謎を解きたいと考えて、頑張っておられる。実際、まさにそれこそが新しい生命活動なんですよ。これが生命だっていう既存の定義をくつがえして、予定調和を崩していく。そこに「生きる」というダイナミックな本質がある。縦割りの知だけでは問題であると私は先ほど言いました。池上先生も私も横割りです。ただ、池上先生は、対象は横割りだけれども、方法論は一貫している。ピュアな数理モデルを使って攻めていくものだと思います。それに対して自分はどうなのかなと顧みると、同じ横割りでも、私の攻め方は分野ごとに柔軟というか、揺らいでいます。そうすると武器は自然言語しかない。以前、私も数理的な方法論をとったこともありましたが、あれはピンポイントで当たらないとうまくいかない。モデリングに鋭い直観が必要です。一方、自然言語というのはものすごい体系であって、芸術、技術、社会など、なんでもメタなレベルで論ずることができる。横割りの場合、池上流と西垣流の二つのアプローチがあって、方法論としては中途半端はダメですね。

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セミナー後記

17時から始まったセミナーは、19時半に一応お開きとなりました。2時間半という短い時間の中に、様々な見方や新しい知見がギュっと詰まったものでありました。簡単にではありますが、先生方の講演や対談から「身体化された心」と「人工の脳」とその関係性について、まとめてみました。

両先生方はそれぞれのキーワードを、言葉や表現の仕方を様々用いながら説明してくださいました。そして、「身体化された心」と「人工の脳」を橋渡しするために、西垣先生は小説や、言語を用いたコミュニケーションシステムでアプローチされており、対する池上先生は、数理的なモデルを扱いながらも機械に「寄り添う」ことや、アートといった媒介を通じてアプローチされているといえるのではないでしょうか。

この表はあくまで簡単なものであり、どちらが重要であるとか、どちらの概念がどちらの先生の基盤であると言い切れるものでもありません。おそらく両先生方は「身体化された心」と「人工の脳」両方を見据えながらそれぞれの研究を通して、二つの概念を行き来されているのだと思います。

今回は後半の対談が「生命とは何か」といったことに焦点をあてたものになってしまいましたが、ほかのテーマでもこの表にあるような二項を用いた議論は可能であると思います。皆様も是非、自分の研究分野においては「身体化された心」と「人工の脳」に相当するものは何なのか、そこをつなぎ合わせるアプローチはどのようなものがあるのか、を考えてみてください。

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